533はうつから復帰したい

2017年春、新社会人として半年頑張ったら、頑張りすぎて心が壊れてしまった女の独り言。

東日本大震災が私に残していったもの。7年経って思うこと。

忘れもしない大地震

当時不登校中の中学生だった。この時も精神的に辛い時期ではあった。
死んじゃおうかなーとか、だれか殺してくれとか思ったり、
でも死ぬ勇気がなくてグダグダ病んでいたあの頃。

その時、私はシャワーを浴びていた。

まだ入浴を始めたばかりで、シャンプーがモコモコしてきた時。

脱衣所から、何かが落ちる音がした。

その時母が家にいたから、洗剤でも落としたのかなと、
風呂場から顔を出して様子を伺ったら、

脱衣所は棚から落ちてきた洗剤やらカミソリやら、
いろんなものが散らばって、惨状になっていた。

その時に揺れていることに気づいた。

呆然としていたら、母が毛布を持って脱衣所に飛び込んできて、
頭がモコモコで全裸の私に被せて、
2人でリビングまで走って、テーブルの下に潜り、
片手で手を固くつなぎ、もう片方の手でテーブルの足を抑えて、

揺れが収まるのをひたすら待っていた。

乗り物酔いしやすい体質で、地震の揺れにも酔い始めたころ
ようやく揺れは収まって。

揺れた瞬間、母は食器棚のロックをかけていたので
割れ物が散乱することはなく、
家の中のライフラインも断たれていなく、
鉄筋コンクリートのマンションなので倒壊の心配もなく、

とにかく、家の中で過ごすことはできる状態だった。

ひとまず風呂場に戻ってシャンプーを流し、
いつでも外に出られるように身支度を済ませたところで、

小学校にいる妹の引き取りに行ってくると、
母は私を1人家に残して、出て行った。

トラウマの原因

母が出て行ってわずか1分ほどで、大きな余震がきた。
余震とはいえど、本震と同じくらいの揺れを感じた。

私はものが散乱したリビングに一人ぼっちで、
震度5弱の揺れを体感した。

食器棚の中で食器が割れる音、
ピアノの上の楽譜がバサバサと降ってくる音、
ジェットコースターに乗っているように揺れる視界、

とにかく母を呼び戻さないと、と
繋がるはずもない携帯電話で母の携帯に発信を繰り返していた。

母は揺れが収まる前に戻ってきた。
道中の揺れの大きさに気づき、引き返して帰ってきた。

恐怖で蒼白な顔で固まっている私とともに家の中で揺れが収まるのを待って、
今度は2人で妹の待つ小学校へ向かった。

妹を引き取り、連絡が取れない父の心配をしつつ
テレビで東北の津波をみて呆然としていた。

ちなみに父はその日の夜中、炊き出しで受け取ったおにぎり一つと500mlの水1本だけで、
スーツに革靴のまま、横浜から東京の真ん中の家まで歩いて帰ってきた。

母と妹は寝ていたけど私は帰ってきた音で起きて、
お風呂を温め直して、
父の皮が破れてただれてしまった靴擦れを消毒して絆創膏を貼り、
お茶漬けを用意しながら、
連絡が全く取れなかった父が帰ってきた安心感で泣いていたのを覚えている。

それからの余震は、そこまで大きくなかったことと
家族がいたお陰か、恐怖感は残っていない。

ひとりぼっちの家で大きな揺れを体感して、
全く役に立たない連絡網、

おそらくそれがトラウマとなって、

今、地震が来るとパニックになってしまう。

被災者は東北だけ?

一番の被害を受けた地域は東北だ。
未だに仮設住宅で生活をせざるを得ない人たちもいるし、
3.11が残した爪痕が大きく残っているのは東北だろう。

私は3.11を東京で体感した。
それでも、立派なトラウマとなってしまっている。

遠くない将来、大地震が関東をはじめ様々なところで発生すると言われている。
あの時感じた揺れを上回る揺れが東京でも起こるのかと思うと、
恐怖で固まってしまう。

なんとかなるさではなく、なんとかするの考え方が大事だと思う。
避難袋があるだけでも、災害に対してお守りのように
心に余裕が生まれる。

この余裕が生死を分けるのかもしれない。

生きて行くのに必要なものは、人によって違うだろう。
私はうつ病なので薬1週間分は避難袋に入れておきたい。
目が悪いからメガネの予備も必須。
女性なので生理用品なども必要だろう。

今一度、自分が生きるための装備を見直して
いつでも持ち出せるところに収納しよう。



こみみ



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